たまき雄一郎 衆議院議員(香川2区)・国民民主党代表

エピソード


幼少時代

3人兄弟の長男として、田んぼの真ん中の家で生まれ育つ。
母親のバイクの後ろに載って幼稚園に通っていたが、いつも大きな声でアニメソングなどを歌っていた。風に吹かれて気持ちよかったことは、自分でもよく覚えている。
父は農協で畜産の仕事に従事し、祖父も地元の農協の組合長を務めていた。母は近くの特別養護老人ホームに勤務していた。

小学校時代

子どもの多い時代だったが、小さな町であったため、「一学年一クラス」の小学校。保育所~幼稚園~小学校を通じて同じメンバーで、今でも全員の出席番号を覚えている。
小学校時代は、いろんなスポーツに取り組んだが、特に、水泳では個人メドレーが得意で大会でも活躍。
そのほか、男子バレーボールやサッカーも好きだった。サッカーは特に夢中になり、ブラジル留学を考えたほど。
家では、農作業を手伝えと言われることがあったが、それが嫌で、逃げるように勉強した。
唯一の習い事が、そろばん。息子も同じ珠算教室で同じ先生に教えてもらった。暗算は、今でも役立っている。
「少年ジャンプ」が好きで、30分かけて近くの雑貨店に毎週買いに行っていた。
奈良県に行ったのが、生涯唯一の家族旅行。
卒業文集には「国連事務総長」になると書いてある。

中学校時代

中学校で隣町の小学校と一緒になって2クラスとなり、生まれてはじめてクラス替えを経験する。
部活は野球部で、3年時にはキャプテンを務める。
ピッチャーだったがあまりにノーコンで、センターにコンバートされた。ただ、打てば飛んだし、足は速かった。
当時は、水を飲んではダメといった練習方法だったので毎日がとてもつらかったが、そんな経験をしたから心身ともにタフになった。
夏休みに船でグアムに行き、他県の子どもたちと触れ合い、初めて外国の文化に接する。これが国際的な視野を持つ最初の機会になったと思う。
当時、農林水産省の補助金でわが町に導入されたCATVで、NHKのBS放送が見られるようになり、マイケル・ジャクソンをはじめとした海外のアーティストのコンサートを見て衝撃を受ける。今でも、マイケル・ジャクソンの大ファン。

高校時代

郡部の町から県都高松市にある県立高松高校に通うことになり、これまで見たこともない高いビルや、きらびやかな商店街に度肝を抜かれる。
高徳線(今も電化されておらず、「汽車」と呼んでいた。)に乗って片道1時間以上かけて通学。
汽車を使って通学していた仲間(「汽車通仲間」)とは今も交流がある。
高校2年のとき、文化祭委員長を務める。ダンスイベントを企画した。
軽音楽部で仲間とともにバンド活動も。ギターやピアノはその頃独学で覚える。よく、曲も作っていた。
体育の時間に、立ち幅跳びでかなりの記録を出し、体育の先生に陸上部入りを進められるも、陸上は大学に行ったらやるからと言って断る。
学校の屋上でのキャッチボールがもう一つの楽しみだった。カーブの切れは、あの当時が最高。
一浪して、高松高校の「補習科」に通う。理系の同級生と一緒に勉強した一年間は本当に楽しい思い出。今でもときどき飲みに行っては、浪人時代の話で盛り上がる。

大学時代

第2外国語でスペイン語を取る。同級生には、社会活動家の湯浅誠君や、ファジアーノ岡山の社長の木村正明君がいた。とてもユニークなクラスだった。
スペイン語は勉強したものの、今はすっかり忘れてしまった。
陸上部に入部し、最初、短距離をやっていたが、キャプテンの島本幸治さん(現ソシエテジェネラル日本支社長)に勧められ、十種競技をはじめ、のめり込む。
毎日、筋トレに明け暮れ、2年の冬を過ぎて3年になったときに、自分でも体つきが変わっていたことが分かるほど肉体改造。記録も大幅に伸びた。
得意種目は、400m走と棒高跳び。
陸上部の先輩や同僚と練習の後や大会の後、よくカラオケ屋に行っていた。本格的にカラオケ好きとなったのはその時から。
ある店で、徳永英明さんの「壊れかけのradio」を歌っていたらスカウトされたことがある。

大蔵省時代

面接のとき、おもしろい話をする人がたくさんいる職場だなぁ~と思って決めたのが大蔵省(当時)。
入省一年目で配属されたのが主計局総務課。月300時間の超勤はざらだった。今でいうブラック企業。コピー取りや文書配付など単純な仕事しかさせてもらえなかったが、仕事はとても面白かった。
職場にあったコピー機は、日本一コピーをとるマシーンと言われていた。
入省した年(1993年)に自民党政権が下野。政権交代を経験。
大蔵不祥事が発生し、職場を取り巻く環境も激変。
今から考えれば、当時の大蔵省は天狗になり過ぎていたのではないかと思う。逆に今は、自信を失い過ぎていると思う。

ハーバード大学留学時代

入省3年目に留学の機会を与えられたものの、主計局時代に全く英語を使わない仕事をしていたため、TOEFLの点数が著しく低く、受験した米国大学院の試験に、ことごとく不合格となる。
そんな中、奇跡的に、ハーバード大学のケネディスクールから合格通知が届き、かろうじて米国留学を実現する。ただし、サマースクールで英語の授業を受けて英語力を向上させるという条件付き。必死で英語を勉強した。
留学時代は、人生の中で最も勉強した時代。一晩で100ページ以上、英語の本を読むといった宿題は、とてもきつかったが鍛えられた。
各国から集まる優秀な学生との交流は刺激になったし、後に政治の世界を志す大きなきっかけとなった。
インド人留学生に、数学と統計学を教えていたことが密かな自慢。
卒業証書を渡してくれた学長は、ジョセフ・ナイ元国務次官補。
留学中に急な腹痛に襲われ開腹手術をした。救急車に乗り、アメリカの医療制度の現実を実体験する。日本の公的皆保険制度の素晴らしさを実感。
妻との結婚式はハーバード大学の教会で。学生割引で料金が安かった。

外務省出向(ヨルダン、リビア担当)時代

留学から帰ってすぐに外務省中近東アフリカ局中近東第一課に出向となる。
ヨルダンとリビアを担当し、中東各国を何度も訪問した。
日本からの経済協力の仕事が多く、時にヨルダン政府の閣議にも出席し、ヨルダン政府の予算編成の議論にも関わる。
ヨルダンのフセイン国王が亡くなった際には、皇太子殿下・雅子妃殿下とともにアンマンで行われた国葬に参列した。
国連制裁下のリビアに日本人ビジネス団とともに訪問し、砂漠の真ん中のテントでカダフィ大佐と面会。後の日本とリビアの経済関係の糸口を作る。
リビアに行くと決めた途端、米国大使館の参事官から、リビア訪問についての問い合わせと申し入れ(抗議)を受けたことが、強く印象に残っている。
第2回アフリカ開発会議(TICAD II)で、債務管理の技術協力のメカニズムの創設に関わる。
中東やアフリカを担当することで、米国以外の視点から世界を見ることの大切さを実感。

金融庁(証券取引等監視委員会)時代

新市場「マザーズ」の開設など、市場の改革が進んだ時代、証券取引法の改正を担当する。東京証券取引所の株式会社化の法案も手がける。衆議院で可決され、参議院に送付した後に条文のミスが見つかり、ハラハラしたことも。
証券取引等監視委員会では、株価操作やインサイダー取引の調査にかかわる。金融庁が発足した初年度でもあり、全てが初めての連続。当時の証券取引等監視委員会のホームページは、コンテンツだけでなくデザインも含め、自ら作成した。

大阪国税局勤務時代

家族とともに、初めての地方勤務を大阪で経験。
50名の部下を持つ総務課長という役職を拝命し、人事を含めた組織マネジメントを学ぶ貴重な機会となった。
頻発する職員の不祥事の対応には四苦八苦するも、優れた部下に恵まれなんとか乗り切ることができた。そのときの経験から、不祥事が発生したときの危機管理、リスクコミュニケーションが重要だと身を持って学んだ。
焼き肉の匂い漂うJR鶴橋駅近くの官舎に住んでいた。

内閣府出向・行革大臣秘書専門官時代

内閣府に出向となり、総務省、金融庁から来た秘書官とともに、行革大臣を支える仕事に従事。特殊法人改革、公務員制度改革、公益法人制度改革といった行政改革だけでなく、規制改革、構造改革特区制度、地方再生、産業再生機構なども担当し、幅広く改革に取り組んだ。
各省庁に一気に知り合いが増えたのもこの頃で、今でも、各省庁に親しくさせていただいている仲間がいるのはありがたい。
結果として、丸3年間にわたって、石原伸晃大臣、金子一義大臣、村上誠一郎大臣の3人の行革大臣と仕事をする。政治との本格的な接点もこの頃から。
当時、自民党本部に連れていかれ、安倍幹事長(当時)から、あいている選挙区のリストを見せられたことがあるが、ふるさとの香川2区は現職で埋まっており、「選挙するならお墓さんのあるところでやります」と言ってお断りした。
当時は、仮に政治の世界に行くとしても、まだ先だろうとあまり真剣には考えていなかった。

財務省主計局主査時代、そして初出馬

出向先の内閣府から、古巣の財務省主計局に戻ってきて、三位一体改革の主計局主査を拝命。国のひもつき補助金を廃止して、財源を地方に移す仕事をしていたが、突如、「郵政選挙」が行われることになり、自民、民主両党から出馬しないかと声をかけられる。
小泉政権の官僚の身であったこと、また、親も自民党員だったので、民主党から出ることには反対も多かったが、日本にも、切磋琢磨できる保守二大政党制が必要だと思い、当時野党だった民主党からの出馬を決める。
解散が決まった後で職場を辞めることを決めたので、財務省には迷惑をかけたが、より大きな形で国家・国民に恩返ししようと覚悟を決めて出馬。
約1か月間の超短期決戦。あっと言う間に投票日が来たという印象しか残っていない。7万票を超える得票を得るも落選。
無謀な挑戦と言われたが、政治家は決断こそ仕事。「今、決断できないことは、時間がたったからといって決断できるものではない。今行動するしかない。」と思い決心。

浪人時代

ただ、落選した後、東京の宿舎を引き払い、田舎に引っ越しするときは、なかなか切ないものがあり、特に、妻と子どもには迷惑をかけた。
当時、幼稚園児だった子どもにも転校を強いることになり、転校先の幼稚園になかなか馴染めず、父親として付き添うこともしばしば。園庭でずっと息子を見ていたことを覚えている。
落選後、実家での両親、妻、息子との三世代同居が始まる。
浪人時代の4年間を通じて、地域の皆さんとの関係を再構築していく中で、改めて地元や地方を何とかしなくてはならないという気持ちが強まった。
今となっては貴重な4年間だったと思う。あの時の活動や経験がなければ、その後の厳しい逆風の中で、5回連続小選挙区で当選することはできなかっただろうし、単に、霞が関から永田町に数キロメートルだけ職場が移動しただけの政治家になっていたと思う。
とにかく、厳しい時期を支えてくれた支援者、両親、祖母、妻、息子には感謝してもしきれないと思っている。

政権与党民主党時代

2009年、歴史的な政権交代を伴う形で初当選。
初登院の前夜、ホテルに泊まっていたが、歴史的政権交代が実現した国会に少しでも早く行こうと思い国会に赴くが、同じく初当選された三宅雪子さんがさらに先に到着しており、「一番乗り」は果たせず。
国会では、食と農の問題に取り組もうと希望して農林水産委員会に所属した。それ以来、今に至るまでずっと農林水産業の政策にたずさわっている。
当時、小沢幹事長が土地改良予算を大きく削減したが、関係者への説明を丁寧に行い、香川用水、土器川右岸をはじめとした香川県内の土地改良予算は、大幅に増加させた。その結果、香川用水の第一期工事は予定より早く終わり、速やかに二期工事に移行することができた。
「事業仕分け」にも携わりムダな予算に切り込むとともに、制度的な改革・見直しにも取り組み、のちに実現につなげていった。
動物愛護の活動も熱心に取り組んできた。特に、東日本大震災が発災した後は、福島第一原発の警戒区域内に取り残された牛、豚、犬、猫等の救援・保護活動に取り組んだ。救援の様子を報告したツイッターのリツイート数は、AKBメンバーのリツイート数を上回るほどだった。

野党時代(民主党・民進党)

2012年の総選挙で野に下るものの、なんとか小選挙区で当選。全国で大量に落選者が出て、四国地方、中国地方、九州地方で唯一の小選挙区当選者となる。
2009年一緒に当選した同期は143名いたが、再選できたのは5名のみ。選挙区当選は私と岸本周平さん(和歌山1区)の2名のみだった。
年金の減額(特例水準の解消)と消費税増税の必要性を訴えながらの選挙であったため、「あんたが年金減らした」「あんたが税金上げた」と高齢者の女性から言われた言葉は、今も強く心に残っている。
国会における総理との論戦を通じて、福島第一原発事故の汚染水処理の問題に解決策を提案したり、雇用関係予算のムダ遣いの改善に取り組み一定の具体的成果を出せたことが、一番印象に残っている。
2014年の総選挙で3回目の小選挙区当選を果たす。私の他に九州地方で2名の選挙区当選者が出たものの、依然として西日本の選挙事情は厳しいのが実状。
質問回数や議員立法の数などで衆参両議員を評価したNPOの調査で、3年連続で、「三ツ星議員」に選出される。
予算委員会で使用するブルーの「パネル」は、理事会等で与野党の議員から話題となる。難しい政策議論を、少しでも国民に分かりやすく伝えていければと日々改良を図っている。
2016年9月の民進党代表選挙には、「こども国債」の発行による子ども・子育て予算の倍増と、少子化の克服を訴えて出馬。残念ながら、代表にはなれなかった。
2017年9月まで、民進党幹事長代理を務める。

野党時代(国民民主党以降)

2017年の総選挙では、衆議院民進党が希望の党に事実上合流するとの党議決定に従って希望の党から出馬し、逆風の中で4回目の小選挙区当選。
約半年間、総選挙の敗戦処理を担う。ある雑誌の取材に「火中の栗を拾って食べる」と表現。党の年越し資金調達のため、人生で初の億単位の借金をする。(現在は完済)
2018年5月に参議院民進党と希望の党が合流して国民民主党を結成。民進党代表だった大塚耕平さんとともに共同代表を務め、同年10月の代表選で代表に選出される。
「つくろう、新しい答え。」「対決だけでなく解決」「提案型の改革中道政党」を掲げ、コロナの一律10万円給付をいち早く提案するなど、「政策先導型」政党の代表として奮闘。
2020年9月、立憲民主党に合流しなかった衆議院6人、参議院8人の仲間と新・国民民主党として再出発。
2021年の総選挙では全国の仲間の応援で選挙区にほとんど帰れなかったが、5期目当選。「党が消えてなくなる」と揶揄されるも、結果は3議席増の11議席に。若い世代の支持に助けられた。2022年、政府予算案への賛成と引き換えに自民・公明・国民の三党協議に持ち込み、選挙公約だったガソリン値下げを実現。政策本位で協力できる政党とは与野党を問わず連携し、政策実現にこだわり続ける。

まだまだ道半ば。志は変わらない。